原爆の日 昭和二十年(1945) 八月六日(月) 廣島

原爆ドームの昔 広島県産業奨励館
原爆ドームの昔 広島県産業奨励館
戦前の廣島中心部(現平和公園 右上は産業奨励館) 資料館の模型
戦前の廣島中心部(現平和公園 右上は産業奨励館) 資料館の模型

廣島は毛利輝元築城以来400年を誇る城下町の歴史を受け継いだ人情味あふれる街でした。

人口35万人が暮らしているこの廣島は、明治に宇品港(うじなこう)を整備し陸軍の拠点となり、日清・日露戦争においては海外出兵する基地となり軍都としての歩みを始めていました。

 

しかし軍都とはいえ、廣島は7つの川が流れる水の都。市内中心部を流れる元安川、本川では釣り人が糸をたれ、ポンポン船が接岸し、夏は連日こども達が川に飛び込み、引き潮で水が退くと川原で川原ベースボールが始まるなどと、のどかな風景が続いていました。町内の路では「ナンマンエー」と声をかけながら、おばさんが氷を詰めた木箱に小イワシを沢山積んでリヤカー押す姿が見かけられました。

 

中島本町・元柳町・天神町・材木町・木挽(こびき)町(現平和公園)は、市内のもっとも賑やかな所。カフェ、旅館、呉服屋などが軒を連ね、往来は買い物客で人の波が切れることがなかったのです。

猿楽町(現大手町)に建つ、廣島のシンボル廣島縣産業奨励館(現原爆ドーム)は、チェコスロバキアのヤン・レツルが設計し、大正4年にできた(開館当時は物産陳列館)廣島の街のどこにいてもひときわ目立つモダンな洋風の建物。夜になると電球でライトアップされた優美な姿は市民のいこいの場になっていました。

 

そして運命の日

日本時間8月6日午前0時37分 日本を離れること6000キロ、太平洋のグアム島の北西に浮かぶテニアン島より米軍気象観測機3機が離陸。つづく午前1時45分 通称「リトル・ボーイ」といわれる原子爆弾を搭載した爆撃機B29 エノラ・ゲイが離陸。これが人類史に汚点を残す出来事の始まりでした。

 

同日早朝、米軍気象観測機が廣島市上空に侵入。

 

午前7時9分、空襲警報が発令されましたが、しばらくすると通り過ぎた為、同31分、警報解除。市民は仕事に出かけだしました。この日も市内中心部一帯では爆撃による市街地大火を防ぐため市を南北に両断する防火地帯を設定していました。国民義勇隊、中学校1・2年生を中心とする11校1900人の動員学徒が建物疎開(建物を取り壊して空き地にする)がまもなく始まろうしていました。午前8時10分、本川の土手(現在の平和公園西岸)に集合した広島二中の一年生は新大橋(現・西平和大橋)の東づめから一学級、二学級の順で六学級まで、2列横隊でならび、本川を背にして東に向かいちょうど進入するB29爆撃機(エノラ・ゲイ)と真正面から向き合う位置になったのでした。

上空9千メートルから投下目標のT字橋、相生橋めがけてリトルボーイ(原子爆弾)が投下されました。

 午前8時15分 爆弾は目標から南東方向に少し流され、細工町(現大手町1丁目)の島病院(現島科)の上空約580メートル地点で太陽がまじかに出現したかのように炸裂。大きな爆発音とともに熱線・放射線も伴って放出、市民を襲いました。(この地点の温度は数百万度、十数万気圧) 爆破の威力は、通常のTNT火薬に換算して約15キロトン。B29一機が搭載する通常爆弾の実に3千機分に相当。

爆破後、きのこ雲が立ち昇り、高度1万7000メートルにまで達しました。

衝撃波により、市内のほとんどの地域で建物が倒壊、窓ガラスが割れる被害は27キロ離れた地点まで及んだのです。

爆風、熱線による即死者が大勢、また多くの市民は、倒壊した家屋の下敷きになり野外にいた者は重い火傷を負い、水を求め川に入り、そののまま息絶える者が続出。川面は遺体と瓦礫で埋め尽くされました。また熱線による自然発火で市内各所で火災が発生。火災により熱せられた空気が上昇、その後に周囲からの冷たい空気が流こむ火事風が生じ、火災の勢いが増し、助けを求めていた市民多数が焼死しました。

 

消防は壊滅状態のため、消火活動がほとんどできず、ようやく火勢が衰えたのは午後5時頃でした。爆心から半径2.5キロの範囲では、ほとんどの建造物が焼失。県庁、市役所をはじめ警察署、消防署、郵便局、通信局、電話局、放送局が大きな被害を受け、行政機能が混乱した。夕刻になり比治山多聞院に臨時縣防空本部が設けられました。

 市内18ヶ所あった救護病院、32ヶ所の救護所も全滅。市内にいた医師270人、看護婦1650人のうち、約9割が死亡したり負傷したりしました。

 

壊滅を免れた廣島陸軍病院赤十字病院、逓信病院、廣島第一陸軍江波分院などには負傷者が次々に助けを求めて訪れ、多くの負傷者が、悪心や嘔吐、食欲不振を訴えてましたが、医師たちは明確な原因が分からず戸惑いながらも懸命の治療が行われてました。しかし医薬品の不足は深刻化していたのです。

市周辺部にある各警察署が急遽、応援隊を編成。宇品にあって被害が少なかった陸軍船舶司令部(暁部隊)も、負傷者の収容や移送、応急手当て、遺体の収容作業に当たりました。しかし、負傷者を収容しきれず、廣島湾の似島や金輪島に船で送っていました。

 

黒い雨は、午前9時ごろから午後4時ごろにかけて、廣島市北、西部から佐伯郡、山県郡、安佐郡などでも降り、廣島県境に近い島根県南部でも降りました。。雨に打たれた住民らは、服が真っ黒に汚れたり、川の魚が大量に死んで浮かぶなどしたため、不安を募らせていました・・・

 

[放射線による被害]

 原爆が通常の火薬爆弾と違うのは、爆発した時のエネルギーが桁外れに大きいこと以外に、人体に極めて有害な放射線を出すことです。 爆発後1分以内に大量に降り注いだ放射線は「初期放射線」と呼ばれます。この初期放射線は人体に大きな障害をもたらし、特に爆心地から2キロメートル以内の屋外で直接受けた人は、死亡しなかったとしても、後々までその影響に悩まされることになりました。

 爆発後1分から長時間にわたって「残留放射線」がありました。このため、直接被爆しなかった人でも、救援活動や肉親を捜して爆心地に近い場所に入った人は、放射線による被害を受けました。

 

[外電]

トルーマン米大統領は廣島市への新型爆弾投下から16時間後の7日未明(日本時間)、ホワイトハウスで声明を発表し、投下されたのは新たに開発された原子爆弾だったことを明らかにしました。原爆の威力は「戦争史上これまでに使われた爆弾の中でもっとも大型」と表明。日本政府が降伏しなければ、さらに原爆で攻撃すると警告していました。

 

【原爆死没者名簿登載者数】 

   33万3,907名

〔令和4年(2022年)8月6日現在〕

(名簿冊数123冊(「氏名不詳者 多数」と記した名簿1冊を含む。))

      令和4年8月6日 追加奉納数:4,978名

※上記のほか、「長崎原爆死没者名簿(広島奉納希望者)」1冊(登載者数13名)を奉納。

 

広島市 原爆死没者名簿について より引用

https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/atomicbomb-peace/15513.html

(備考)

この文章は、1995年8月6日被爆50周年に 新聞労連・中国新聞労働組合が作成した゛原爆投下で発行できなかった1945年8月7日付けの新聞を「ヒロシマ新聞」として発行した紙面゛を参考に、許可を得て当ホームページ用に再構成したものです。

その他の参考書

日本の名作文庫 いしぶみ 編・広島テレビ放送 ㈱ポプラ社 

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